司馬遼太郎「覇王の家」その3
第3回目のテーマは、「人生最大の戦果はこうして生まれた」でした。この回のNHKの説明は、こちら(←外部リンク)から。
第2回にあったように、家康の信長に尽くす姿は、律儀者としてのうつりましたが、信長の死後、天下を目指すこととなり、家康が「謀略家」としての姿が垣間見えるようになった。
第2回にあったように、家康の信長に尽くす姿は、律儀者としてのうつりましたが、信長の死後、天下を目指すこととなり、家康が「謀略家」としての姿が垣間見えるようになった。
例えば、
・本能寺の変の後は、真っ先に明智光秀を討伐せず、少し待ち、他の武将の出方・動きを見ていた。
・柴田勝家(織田信長の筆頭家老)賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝ち、国宝級のお礼を送り、秀吉側に寄り添うような姿勢を見せていたものの、結局、織田信長の次男・信雄からの要請で、秀吉と「小牧・長久手の戦い」で戦うこととなる。
この本の大きな部分を占める、大軍の秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」。この戦いでは、圧倒的に戦力の違いはあったものの、勝利を収めた。これの勝因として、兵のコントロールや情報収集能力などに長けていたという。そもそも、家康にある「三河かたぎ=実直・律儀」があり、これらに繋がっているとした。家康は、当時流行の茶器や明宝には興味を示さず、「わが宝は、身代わりになってくれる家臣が5百ほどいることだ」と誇っていたとか。
また、この「三河かたぎ」があったからこそ、江戸時代の幕府の官僚制を成功させ、約260年もの間平和な社会であった。
また、この「三河かたぎ」があったからこそ、江戸時代の幕府の官僚制を成功させ、約260年もの間平和な社会であった。
このように、人を描いて歴史を描くといった人物史観、ジャーナリスティックな感性、全体を見ながら部分を見ている、で歴史を描こうと挑戦していると。
【本】・司馬遼太郎「覇王の家」(上)(←PR:Amazonリンク)





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